名倉さん

2018.03.23

「名倉さん、癌は末期だそうよ」

癌がすごくにくい。

こんな事を私達が言ってはいけないのかもしれませんが
今の正直な気持ちです。

 

私が結婚を機に出逢った、でいさーびすちゅーりっぷの名倉さん。

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(2016年10月30日18:48 でいさーびすちゅーりっぷ にて 次男 悠人 と)

 

自分にはもちろん、相手にもとても厳しい方で曲がった事が許せない、そんな名倉さん。

弱音を絶対に吐かない名倉さん。
人として正しい生き方、徳の積み方を教えて頂いた、名倉さん。
私はバカ正直と言われる事もありますが、歩んできた道は間違いでなかったなと少しほっとしました。

私は毎日帰宅も遅く、週に一度家族と夜ご飯を食べれたら良い方。
嫁(事務長)は弊社で19時過ぎまで働き、19:30までに保育園へ3人をお迎え。
食事を段取りし、食べさせながらお風呂の準備。
お風呂を終えたら、歯磨き、トイレ、寝かしつけ。これを6年間ほぼ一人でやってきたんです。
今時の表現だとワンオペ育児、家事+責任ある仕事の数々。

名倉さんは、そんな状況を知ってるいるので食べる事、その用意だけは心配せんでいいようにと、
夜ごはんのおかずをほぼ毎日準備してくれたり、私や本社の社員さんのお昼ご飯まで
用意してくれました。

子どもの日、クリスマスや全てのイベントに加え、子ども達の誕生日にも必ずケーキを用意してくれた、名倉さん。

バレンタインデーはチョコよりお肉がええじゃろう、とフレスタさんの
一番いいお肉を毎年用意してくれた、名倉さん。

節目だけでなく、「明日は、私が手料理をご馳走しよう!」と言いでいさーびすちゅーりっぷで
私達だけの為にたくさんご馳走してくださった、名倉さん。
それも月に何回も。

名倉さんの名誉のために補足させて頂くと、光熱費はデイのものを利用させて頂いていました。
ですので、管理者には利用者さんの食材費はかなり持ち出しをしているの(全体の周知の事実)で、
そこで多めに見て(相殺)と話していました。
事実、おやつ代やイベント事で利用者さんには心に残る料理が提供出来ていたと思います。

弊社が移転したりする度お祝いをして下さる、名倉さん。

名倉さんの歩んだ人生、この近く(横川、楠木)の歴史と変遷を教えてくれた、名倉さん。

創業してこの6年間、
私と私の家族、仕事、会社を支えてくださっている恩人、名倉さん。

でいさーびすちゅーりっぷの食事を担当されている、名倉さん。
あえて現在進行形で。

そんな名倉さんが、2週間前から吉島病院に入院されており、今日も午前お見舞いに。

日曜日に行った時も、もう泣かない。そう決めたのに今日も涙が。

今朝、主治医から連絡があったそうで、妹さんに加え弟さんのお嫁さんも病院へ。
絶対に泣いてはいけないと思いながらも名倉さんと話していると、また泣いてしまい。

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(2016年10月30日19:33 でいさーびすちゅーりっぷ にて 長男 優人 と)

 

今まで、というと過去の話になるので嫌ですが、
いつも名倉さんは23時頃デイに出勤されていました。

それから朝方まで翌日の仕込みや新メニューの開発、デイの洗濯ものを畳んだり、
掃除、色んな事をされていました。
だからお互いいつも朝から朝まで働いてるねって。

私が夜中、会合や勉強会、食事会から本社へ帰ると必ずいた名倉さんの姿が今はない。
今日も。

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(2017年5月20日19:42 でいさーびすちゅーりっぷ にて 長男 優人 と)

 

 

 

昨日21日の祝日は名倉さんへ感謝のアルバムを作りたかったので仕事を休みました。

私約4,500枚、事務長(嫁)約2,500枚の写真から選びました。

その製作が捗る様にと、義理兄が子ども達を岡山のおもちゃ王国へ連れて行ってくれました。

兄家族にもいつも私たちの親代わりとなってくれて本当に感謝しています。
というより、私が家にいない分、父親の存在のような気も。

そんな子どもや家族にさみしい思いをさせてる私を名倉さんはいつも応援してくれてました。

小田さんなら出来る、心配しんさんな、まーくんも、さっちゃんも、ひーくんもわかっとる。
小田さんの子どもじゃけ、と。

(2017年1月8日19:31 でいさーびすちゅーりっぷ にて 長女 幸歩 と)

 

 

ここからの話は、私の祖母(父方)の話になります。

2017年12月
最愛の祖母が心不全で亡くなりました。
入所施設の職員さん、主治医の話によると苦しまなかっただろう、と。
まさにピンピンコロリ。

祖母は住み慣れた倉橋の我が家に帰りたいとずっとずっと言っていました。
私が訪問看護、リハビリを始めた理由の一つが祖父母の
【家で暮らしたい、いつか家に帰りたい】という強い想いからでした。

 

遡ること、同年8月
呉に帰省した時に16時ごろ祖母に会いに入所施設へ行ましたが何故か?
職員さんがインターホンに出られず中に入れませんでした。
お盆で職員さんも少なく大変なんだろうと思いました。
祖母はまだまだ元気だし、また年始にでも会えるからまた来よう。
そう思って3度インターホンを鳴らしただけで広島に帰りました。
その4ヶ月後、元気だったはずの祖母が突然亡くなりました。

自他共に認めるほど、孫の中で一番可愛がってもらっていました。

在宅、入所いずれの時代も、孫たちと話していても会話があまり成立しなくても
私との記憶は鮮明なままでした。

認知症はかなり進行していたはずなのに。

後悔と絶望感だけが残りました。

また会える。
そんな保証誰にもできないし、私自身、今生きているけど数分先さえも分かりません。

大学生の時に、祖父(母方)のお見舞いを先延ばしにした結果、
最期に立ち会えませんでした。

祖父も自他共に認める程、孫たちの中で一番私を可愛がってくれていました。
それなのに、大変な過ちを2度も繰り返してしまいました。

私をここまで育ててくれた地域と全ての人達に報いる為にも、一秒たりとも無駄にできないのです。
今の私には恩返しはもとより、恩送りすら出来てません。

私は生かされている使命を全うしたいのです。

全ての事に対して絶対に手を抜きたくないし、特に創業して6年間全て本気で、全力で関わらせて頂いた
自信があります。自負があります。

母方の祖父、叔父さん、父方の祖母。
また会える、また話せる。
そうではなく、今しかないんです。
伝えるなら今。
もう後悔したくありません。

 

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(2017年1月9日19:21 でいさーびすちゅーりっぷ にて 長女 幸歩 と)

そんな名倉さんが18日(日)、私達家族に向かって
『私は役目を終えた。次の役目の人が小田さんらに現れるし、私よりもっとえぇ人が現れるけぇ
心配せんでもえぇ。何よりもうそんな心配もいらんじゃろう』と。

吸入し続けているのに酸素が85を刻んで、痛みで体も悲鳴を上げているのに。
いつもいつも、いつでも、自分が苦しい時でも、私達の事を気に掛けてくれていて。
名倉さんは肺がんでリンパにも転移しているそう。
延命治療は望まないけど、痛みは緩和してほしい。
私が知る限り、名倉さんが初めてしんどさを自分の想いを告げられた瞬間でした。
今日、名倉さんが、もう我慢せんよ、痛みも苦しいも言うよ、と。
しんどさの限界をとうに超えているだろうに、やっと辛さを口に出されました。

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(ひなた本社にて 子どもの日のお祝い)

一番近くにいた私が、体が細くなっていく名倉さんにもっと声掛けが出来たのではないか。
今更そんなことを言っても始まらないことや、名倉さんが今まで教えて下さった事、
して下さった事が走馬灯のように駆け巡ります。

 

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(2014年6月 ひなた本社 楠木へ移転 名倉さんからのお祝い )
私の35年間の人生でここまで偉大な方に出逢い、関わらせてもらった事だけでも幸せな事です。

名倉さんには、してもらった事だらけで、私たちが出来た事なんてこれっぽっちもないと思います。

名倉さんと1日でも長く会いたいし、生きてほしいけど、話したいけど、それに苦しみが伴うなら…

私達は生きているだけで丸儲け。

自戒を込めて繰り返しますが明日が来る事が当たり前でなく、何の約束もない。
私は、今この一瞬を一生懸命生ききり、私達に関わる全ての皆さんにありがとうを伝え、
子ども達をしっかりと抱きしめる。

 

名倉さんが辛そうにしていると仕事が手につきません。
名倉さんの大好きな料理が出来ない事が私も苦しいです。

それで揺らいでしまう私はプロフェッショナルとして失格ですが、
名倉さんが私の肩の力を抜かせてくれているのかもしれません。

名倉さん大好きです。
いつもありがとうございます。

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(2017年12月30日14:50 でいさーびすちゅーりっぷ にて 次男 悠人 と)

 

 


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